笑いの天才と葛藤:桂枝雀の芸と人生
桂枝雀(1939-1999)は、上方落語界を代表する人気噺家ですが、その人生は驚きと感動に満ちていました。兵庫県神戸市生まれの前田達(とおる)は、若い頃から異彩を放つ存在でした。
3代目桂米朝に弟子入りしましたが、その熱心さは尋常ではありませんでした。深夜に街中でネタ繰りをして警察に通報されたり、稽古に没頭するあまり掃除機を部屋中にぶつけて什器を壊したりと、周囲を驚かせました。米朝の妻は「周りを気にせずのめり込む人は、後にも先にもあの子のほかにはいなかった」と証言しています。
実際、枝雀の芸への徹底的なこだわりは、エピソードからもうかがえます。ある時、深夜の喫茶店で客がいないにもかかわらず、まるで満員の寄席のように一人で高座に上がり、空気を読む練習を何時間も続けたといいます。また、噺のネタ探しのため、古書店を徹底的に探索し、珍しい古文書や笑いの種となりそうな逸話を執拗に収集していたことでも知られています。
1973年に2代目桂枝雀を襲名すると、その芸風は大きく変わりました。それまでの繊細な語り口から、初代桂春団治のような激しい芸風に転換。観客を大爆笑させ、大衆的な人気を獲得しました。1979年の『枝雀寄席』、1982年の日本放送演芸大賞受賞と、その人気は絶頂期を迎えます。
英語落語にも果敢に挑戦し、1987年には海外公演も行いました。その柔軟な発想は、「フリー落語の会」で観客から題材を募るなど、常に新しい可能性を追求していました。ある海外公演では、英語が通じない観客の前で、身振り手振りと抑揚だけで笑いを取り、国際的にも落語の可能性を広げました。
その一方で、枝雀の芸の背景には深い孤独と内なる葛藤がありました。舞台裏では、自身のうつ病と常に向き合いながら、笑いを通じて観客に癒しを与えようとしていたのです。仲間の落語家は、「枝雀は舞台の上では圧倒的な存在感を放っていたが、舞台を降りると繊細で傷つきやすい魂を持っていた」と後に語っています。
二度のうつ病の発症を経験し、最終的に1999年、59歳で自ら命を絶ちました。師匠の米朝は「覚悟の自殺というより衝動的なもの」と、その複雑な心の内を偲びました。
2001年、桂枝雀は上方演芸の殿堂入りを果たし、その伝説的な芸は今も語り継がれています。伝統的な古典落語を革新し、独自の笑いの世界を切り開いた、稀代の噺家として、日本の演芸界に深い足跡を残したのです。彼の芸と生涯は、笑いの力と人間の複雑さを象徴する、感動的な物語として今も多くの人々の心に刻まれています。
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